​東京大学2021 解答・解説

このページは、東大の解答速報・過去問・作問方法・各学部の傾向と対策を扱っています。

NEW!

東大(世界史)

​2021/2/26(金)

今までの東大入試で、最も簡単であった。

また、もっとも過去問演習が効いた年でもあった。

 

コロナの影響で、学習進度への配慮から、現代史が少なかった。

ちなみに、東大は例年現代史が多い。

論述:一行30字。

大問1 600字などの大型論述

大問2 中論述 90~120字

大問3 一問一答のサービス問題

 

 

地図問題:ないが、大問1は地理的な思考力が必要だった。

 

書き取り:一問一答

大問Ⅰ

大問1は、地中海の三分裂に関する典型的な問題。

東大だけでなく、国公立大学でよく出題される問題。

 

 

東大(世界史)

​2020/2/26(水)

論述:一行30字。

大問1は、基本600字などの大型論述

地図問題:なし

書き取り:一問一答

大問Ⅰ

冊封体制から主権国家体制への移行。

史料を使えという指示が難度をあげる。

薩摩・下関条約・小中華

条約・清仏戦争・朝貢

 

大問Ⅱ

匈奴最盛期の状況(60字)

モンゴルとチベットの独立の動き(90字)

英国のエジプト進出(120字)

白豪主義の形成過程(60字)

移民・黒人の排斥運動(90字)

米墨戦争の経緯(60字)

 

大問Ⅲ

平易な一問一答。​

東大なだけに、学問系が目立つ。

追記:

2020/02/27(木)0:48現在

大問1について。

河合さんと東進さんと代ゼミさんの解答を読んだ。(駿台さんはまだ出てない)

三者とも、

小中華思想を、

夷狄の清が明を滅ぼして、

李氏朝鮮が小中華を自称と処理していた。

一方、ゆげは、以下の様に扱った。

「その文明の高さは、 近代列強の進出までは重ねて圧倒的で、史料 A にみられるように朝鮮の小中華思想にまで 影響を与えた。」

これは、本問は

二段階論を取るべきと考えたからだ。

問題は以下である。

「伝統的な国際関係のあり方と近代におけるその変容について」

つまり、小中華意識を丁寧に説明してしまえば、三段階になってしまう。

明を中心とした冊封体制

  ↓

清を馬鹿にした冊封体制

  ↓

​近代主権国家体制

河合さんは、明らかに、

三段階で書いている。

「華夷秩序は再編成された。」

ゆげは問題に対し、素直に答える

二段階論なので、小中華主義による

冊封体制の変容を書きませんでした。

どちらが、正しいのか・・・

東大も外大のように、

​模範解答の提示をお願いしたいですね。

 
 

東大(世界史)

​2016年度

大問Ⅰ

第二次世界大戦後の世界秩序を特徴づけた冷戦は、一般に1989年のマルタ会談やベルリンの壁の崩壊で終結したとされ、それが現代史の分岐点とされることが少なくない。だが、米ソ、欧州以外の地域を見れば、冷戦の終結は必ずしも世界史全体の転換点とは言えないことに気づかされる。 米ソ「新冷戦」と呼ばれた時代に、1990年代以降につながる変化が、世界各地で生まれつつあったのである。以上のことを踏まえて、1970年代後半から1980年代にかけての、東アジア、中東、中米・南米の政治状況の変化について論じなさい。

解答は、解答欄(イ)に20行(600字)以内で記述し、必ず次の8つの語句を一度は用いてその語句に下線を付しなさい。

アジアニーズ(注)  イラン=イスラーム共和国  グレナダ 

光州事件  サダム=フセイン  シナイ半島 

鄧小平  フォークランド紛争

(注)アジアの新興工業経済地域(NIES)

《主題》 

政治状況の変化

《範囲》

1970年代後半から1980年代にかけて

東アジア・中東・中南米 

《副題》

1990年代以降につながる変化

A 2018年08月09日(木) 03:28

米ソ冷戦終結により、パックス=アメリカーナに至った歴史観は、地域史を精緻にみることにより修正を求められる。まず、東アジア。鄧小平が改革開放を推進させ、その経済力で、その後、中国海軍を整備し米国の脅威となった。また、米国の対中拠点となっていた韓国と台湾においても米国の影響力は低下した。その理由は、韓国と台湾はアジアニーズの一員として経済発展し、光州事件や蔣経國死亡後は段階的に民政移管が進められ、その選挙結果によっては、米国と距離を置く政権が登場するようになったからだ。次に中東。確かに、シナイ半島返還によるエジプトの戦線離脱は、中東戦争を終わらせ、米国の影響力は増したように見えるが、同時期に反米のイラン=イスラーム共和国が成立した。米国はその影響下のサダム=フセインにイランを攻撃させるが、イランは防衛に成功し、今日もイランと米国の対立は続き、ホルムズ海峡は不安定なままである。最後に中米・南米。確かに、レーガン政権のグレナダ侵攻は「中南米はアメリカの裏庭」の好例に見える。しかし、同時期にフォークランド紛争が発生しており、これは米ソ冷戦下にも関わらず、起きてしまった資本主義国家同士の戦争であり、アメリカの影響力低下の好例と言える。事実、79年の第二次オイルショック以後の燃料資源の高騰と資源ナショナリズム等により、中南米には反米政権が登場、台頭し、もはや「裏庭」とは呼べない地域となった。597文字

第2問

問1

(b)16世紀にオスマン帝国が導入した外国人商人に対する制度は、イスラーム法の理念にもとづき、交易の発展をはかることを目的としていた。この制度の名称を書きなさい。また行を改めて、この制度の内容、および後の時代に与えた影響について2行(60文字)以内で説明しなさい。

A

カピチュレーション

外国人商人等は飲酒などによるイスラーム法適用を逃れるという治外法権制度。

後に列強により悪用され、植民地化を進展させた。(59文字)

問(2)

北インドでは、ティムールの末裔バーブルが、1526年、パーニーパットの戦いでロディ一朝に勝利をおさめた。

彼がムガル帝国の基礎を築いたとするならば、第3代のアクバルは、中央集権的な機構を整え、ムガル帝国を実質的に建設した人物であった。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

(a)アクバルの時代に整備されたマンサブダール制について2行以内で説明しなさい。

A

(a)ムガール帝国版イクター制。位階に応じて、分与地の徴税権が与えられると同時に軍役時の騎兵・従卒の数が決められていた制度。(60文字)

(b)第6代アウラングゼーブの時代には、ムガル帝国の領土は最大となったが、支配の弱体化も進んだ。この支配の弱体化について2行以内で説明しなさい。

A

領土拡大にマンサブダール制の整備が追いつかなかった。加えて、ジズヤ復活により異教徒の反乱を招き、地方分権化が進んだ。(59文字)

問(3)

17世紀のイングランド(イギリス)およびフランスで実施された経済政策について、それらを推進した人物の名や代表的な法令をあげつつ、当時のオランダの動向と関連づけて4行以内で説明しなさい。

A

中継貿易で栄える蘭国の競争力に対し、英仏は重商主義政策を採った。クロムウェル政権は航海法を制定し、英国の港に入る船を事実上英国船に限る保護政策を採り、英国東印会社を守った。仏国はコルベール指導の下、王立マニュアファクチュアを保護・育成した。(120文字)

東大(世界史)

​2015年度

第1問

近年、13~14世紀を「モンゴル時代」ととらえる見方が提唱されている。それは、「大航海時代」に先立つこの時代に、モンゴル帝国がユーラシア大陸の大半を統合したことによって、広域にわたる交通・商業ネットワークが形成され、人・モノ・カネ・情報がさかんに行きかうようになったことを重視した考え方である。そのような広域交流は、帝国の領域をこえて南シナ海・インド洋や地中海方面にも広がり、西アジア・北アフリカやヨーロッパまでをも結びつけた。

以上のことを踏まえて、この時代に、東は日本列島から西はヨーロッパにいたる広域において見られた交流の様相について、経済的および文化的(宗教を含む)側面に焦点を当てて論じなさい。

その際、必ず次の8つの語句を1度は用いて、その語句に下線を付しなさい。なお、( )で並記した語句は、どちらを用いてもよい。解答は20行(=600字)以内で記述し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。

ジャムチ  授時暦  染付(染付磁器)  ダウ船  東方貿易  博多  ペスト(黒死病)  モンテ=コルヴィノ

要求:交流の様相について

留意点:経済および文化的側面に焦点をあてて

地理的範囲:日本から欧州まで

A 2019/06/29:

まず、経済的側面に焦点をあてる。駅伝制であるジャムチがユーラシア大陸の東西を繋いだだけでなく、これに海の道が接続し、大ネットワークが形成され、金・銀が流通した。その不足から、当時ゴールドラッシュであった日本を服属させようとし、元は博多を襲撃した。マルコ=ポーロはこの黄金伝説を『東方見聞録』で欧州に伝えた。また、東方貿易によって欧州でも貨幣経済が展開し、同じネットワークで入ってきたペストも重なり、西欧では、経済的に定額貨幣地代に移行した。既に中国・朝鮮の主要輸出品となっていた陶磁器は陸路にむかず、それ故に海の道が発達していた。確かに、モンゴルはジャムチを整備し、シルクロードでは文字通り、絹を中心とした東西交易は更に活発になったが、上述の海の道は、陶磁器に加え香辛料も運び、陸路の重要性は相対的に低下した。次に、文化的側面に焦点をあてる。パックス=タタリカは文化的に伝播や融合をもたらした。ダウ船にのったムスリム商人は陶磁器や香辛料を運んだだけでなく、マレー・スマトラのイスラーム化にも貢献した。東方貿易はイスラーム世界からアリストテレス哲学を欧州にもたらし、スコラ哲学へと発展させた。同じく海の道を使ってモンテ=コルヴィノは大都に至り、基督教を布教した。また、イスラーム世界から青色の顔料が中国にもたらされ、染付の開発に至った。また、イスラームの天体観測技術を用いた授時暦も中国で開発された。(599文字)

 

東大(世界史)

​2014年度

第1問

19世紀のユーラシア大陸の歴史を通じて、ロシアの動向は重要な鍵を握っていた。ロシアは、不凍港の獲得などを目指して、隣接する様々な地域に勢力を拡大しようと試みた。こうした動きは、イギリスなど他の列強との間に摩擦を引き起こすこともあった。
以上のことを踏まえて、ウィーン会議から19世紀末までの時期、ロシアの対外政策がユーラシア各地の国際情勢にもたらした変化について、西欧列強の対応にも注意しながら、論じなさい。
解答は20行(=600字)以内で記述し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、
その語句に下線を付しなさい。

アフガニスタン  イリ地方  沿海州  クリミア戦争  トルコマンチャーイ条約
ベルリン会議(1878年)  ポーランド  旅順

《主題》 

ロシアの対外政策がもたらした変化(ユーラシア各地の国際情勢に)

《副題》

西欧列強の対応にも注意しながら

《時期》

ウィーン会議から19世紀末までの時期

A

ナポレオン没落後の19世紀はグレートゲームの時代である。膨張する露国に対し、英国は印度とその連絡路、そして中国での権益を守りたかった。以後は地域別に、中央アジア・中東、バルカン、極東の順に同対立を述べる。露国はウズベク族の地域を抑え、更にイリ地方を巡って清にも勝利し、南下に成功した。これに対し、英国はパンジャーブ防衛の為、苦戦しながらもアフガニスタンに進駐。中東においてもトルコマンチャーイ条約で露国はアルメニア等を獲得し、英国はカージャール朝との関係を強める等で対抗した。次はバルカンに関して。地中海進出を目指す露国はクリミア戦争に国運を賭けるも、英仏連合軍に敗北した。再挑戦した露土戦争には勝利するも、最終的にはベルリン会議において、その南進は止められた。ビスマルクが露国不利に会議を誘導した背景には独国の安全保障があった。1815年に露国はポーランドを獲得した為、独露は国境を接しており、独国は露国に脅威を感じていた為である。その後の独国の強大化に対し、露仏の利害は一致し、同盟が結ばれ、シベリア鉄道建設に至った。既に露国は1860年に沿海州を獲得していたが、同鉄道によって極東進出が加速した。旅順・大連の獲得、東清鉄道の敷設権獲得にまで至った。また義和団事件の際も、露国は大兵力を投入し、中国支配の野心を露わにしていた。中国にも大きな権益を持つ英国は、その対抗の必要性から日英同盟を模索し始めた。

(598文字/600文字 数字は2文字1マス)

 
 

東大(世界史)

​2013年度

第1問

大西洋からインド洋,太平洋にかけて広がる海を舞台にした交易活動は, 17世紀に入り,より活発となり,それにともなって,さまざまな開発が地球上に広く展開されるようになった。それらの開発によって生み出された商品は,世界市場へと流れ込んで人々の暮らしを変えていったが,開発はまた,必要な労働力を確保するための大規模な人の移動と,それにともなう軋轢を生じさせるものであり,そこで生産される商品や生産の担い手についても,時期ごとに特徴をもっていた。
 17世紀から19世紀までのこうした開発の内容や人の移動,および人の移動にともなう軋轢について,カリブ海と北アメリカ両地域への非白人系の移動を対象にし,奴隷制廃止前後の差異に留意しながら論じなさい。解答は,解答欄(イ)に18行以内で記し,必ず次の8つの語句を一度は用いて,その語句に下線を付しなさい。

アメリカ移民法改正(1882年)  大西洋三角貿易  年季労働者(クーリー)  リヴァプール 

奴隷州  白人下層労働者  産業革命  ハイチ独立

《主題》 

開発の内容や人の移動、軋轢について述べなさい

《対象》

カリブ海と北アメリカ両地域へ非白人系の移動を対象に

《時期》

17世紀から19世紀

《副題・留意点》

奴隷制廃止前後の差異に留意しながら論じなさい

大西洋からインド洋、太平洋にかけて広がる海を舞台にした交易活動は17世紀に入り、より活発となり

→大西洋三角貿易

それにともなって、さまざまな開発が地球上に広く展開されるようになった。

→プランテーションの開発 産業革命の進展

それらの開発によって生み出された商品は、世界市場へと流れ込んで人々の暮らしを変えていったが

→商品作物 工業製品

開発はまた、必要な労働力を確保するための大規模な人の移動と、

→奴隷貿易 クーリー貿易

それに伴う軋轢を生じさせるものであり

→奴隷狩り ハイチ独立 南北戦争 移民制限

そこで生産される商品や生産の担い手についても、時期ごとに特徴をもっていた。

→サトウキビ 奴隷   綿花 奴隷    奴隷制廃止後、クーリー(鉄道建設)

A①

17世紀以降、西インド諸島は「砂糖の島」となった。そのプランテーションには黒人奴隷が充てられた。そして、それら「白い積み荷」と「黒い積み荷」を扱った大西洋三角貿易リヴァプールに莫大な利益をもたらし、この蓄積は英国に産業革命をもたらした。その英国工業は原料を求め、合衆国南部に綿花プランテーションと大規模な奴隷制を展開させた。つまり、奴隷制が工業化を準備し、工業化が奴隷制を促したと言える。しかし、一方で工業化は奴隷解放も促した。例を二つ。一つ目、商工業の発達は市民階級を台頭させ、フランス革命等を引き起こした。その本国の自由主義思想に影響を受けた仏領サン=ドマングの黒人奴隷は解放戦争を展開、ハイチ独立に至った。二つ目、工業化の進んだ合衆国北部でも、自由主義思想が進展、南部奴隷州と対立し、南北戦争に至った。同戦争の結果、合衆国は奴隷制度を廃止した。しかしながら、前近代的な奴隷制度が廃止されても、近代は奴隷に類する低賃金労働力を欲し、北米への苦力貿易が展開された。主に中国から入ってきた年季労働者は低賃金長時間労働に耐えるため、白人下層労働者から敵視された。また、同化も拒んだため、WASPにも嫌悪された。結果、アメリカ移民法改正により中国からの移民が禁止されるに至った。(538文字/540文字 数字は2文字1マス)

A②

奴隷制度廃止以前、リヴァプールを基点とした大西洋三角貿易で、西アフリカの黒人が、西インド諸島に奴隷として売られ、主に砂糖プランテーションに従事させられた。軋轢としては、白人地主層の収奪に対する、初の黒人共和国ハイチ独立が挙げられる。奴隷貿易を原資とした英国産業革命の進展により、その原料供給地として北米南部は綿花畑となり、ここにも、黒人奴隷が投入された。軋轢としては、米国の綿花プランテーションを維持したい奴隷州と工場労働者を得たい自由州で争った南北戦争が挙げられる。また、これら奴隷は、西アフリカ沿岸部の黒人が内陸の部族を狩って、売り渡したものであり、軋轢として、今日まで続く、沿岸部と内陸部の部族間抗争がある。奴隷制度廃止後のアメリカでは、更に工業化が進み、その中核となった大陸横断鉄道の建設などに、アイルランドや中国の年季労働者が使われた。彼らは、渡航費を借りた事実上の債務奴隷であった。特に、苦力と呼ばれた中国人労働者は軋轢を生んだ。彼らは中華街を形成し、WASPに同化せず、極端な長時間低賃金労働で白人下層労働者から仕事を奪った。そのため、19世紀末に、中国人移民を排斥する、アメリカ移民法改正に至った。

アイルランド系の記述は本問において要求されてないが、文章の展開のために書いた。

第2問 

問(1)

紀元前l世紀に地中海世界を統ーしたローマは,その広大な帝国を統治するために,宗教をさまざまな形で支配政策に組み入れていった。パレスチナの地に生まれてローマ帝国内に信仰を広げたキリスト教は,皇帝による宗教政策との関わりで,(a)はじめ激しく迫害されたが,やがて(b)紀元後4世紀前半には国家に受け入れられるようになった。

下線部(a)・(b)に対応する以下の問いに,冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

(a)キリスト教徒がローマ皇帝に迫害された理由を2行以内で説明しなさい。

A

一神教を理由に皇帝崇拝を拒否し、また多神教のローマ文化に対しも否定的な態度を取る等、反社会集団と見なされたため。(56文字)

 (b)キリスト教はローマ皇帝によってどのように公認されたか,その皇帝の名前と公認の理由に触れながら, 2行以内で説明しなさい。

​A

経済状況の悪化により基督教徒は増加していた。故に、コンスタンティヌス帝は人心の掌握・統合を目指しミラノ勅令で公認した。

第2問 

問(2)

中国では貌晋南北朝時代になると,国家との関わりのなかで,今日まで影響力をもつような宗教が現れた。以下の(a)・(b)の問いに,冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

(a) この時代には,鳩摩羅什が華北で国家の保護を受けて布教するなど,仏教が本格的に広まった。陸路や海路で西域やインドとの間を行き来して,仏教の普及につとめた人々の活動について, 2行以内で説明しなさい。

A

法顕は印度で仏典を得て中国に戻り漢訳に努めた。クチャ出身の仏図澄は華北での布教に尽力。印度僧達磨は禅宗を中国に伝えた。(59文字)

(b) 北魏では,太武帝の保護を受け,その後の中国で広く信仰される宗教が確立した。その宗教の名称とその特徴,およびその確立の過程について2行以内で説明しなさい

A

道教。現世利益の追求が特徴。特定の開祖・教義がない融合宗教だったが、寇謙之が新天師道という道教教団を整備した事で確立。(59文字)

問(3)

メロヴイング朝フランク王国の急速な勢力拡大の背景には,その基礎を築いた王の改宗があったと考えられている。以下の(a)・(b)の問いに,冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

(a)他のゲルマン諸部族の王の大部分は,当時どのような宗教を信仰していたか, 2行以内で説明しなさい。

A

木などの自然物やアリウス派を信仰していた。アリウス派はニケーア公会議で敗北したイエスの人性を強調する宗派であった。(57文字)

(b)このメロヴィング朝の王は,どのような宗教に改宗したのか,この王の名前とともに. 2行以内で説明しなさい。

​A

王クローヴィスはアタナシウス派に改宗した。同派は旧ローマ系住民に信仰され、神と精霊と子イエスの三位一体を説いた。(56文字)

東大(世界史)

​2012年度

第1問

ヨーロッパ列強により植民地化されたアジア・アフリカの諸地域では、20世紀にはいると民族主義(国民主義)の運動が高まり、第一次世界大戦後、ついで第二次世界大戦後に、その多くが独立を達成する。
しかしその後も旧宗主国(旧植民地本国)への経済的従属や、同化政策のもたらした旧宗主国との文化的結びつき、
また旧植民地からの移民増加による旧宗主国内の社会問題など、植民地主義の遺産は、現在まで長い影を落としている。
植民地独立の過程とその後の展開は、ヨーロッパ諸国それぞれの植民地政策の差異に加えて、
社会主義や宗教運動などの影響も受けつつ、地域により異なる様相を呈する。

以上の点に留意し、地域ごとの差異を考えながら、アジア・アフリカにおける植民地独立の過程とその後の動向を論じなさい。
解答は18行(540文字)以内で記し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。

カシミール紛争    ディエンビエンフー    スエズ運河国有化

アルジェリア戦争    ワフド党    ドイモイ

非暴力・不服従    宗教的標章法(注)

(注) 2004年3月にフランスで制定された法律。「宗教シンボル禁止法」とも呼ばれ、公立学校におけるムスリム女性のスカーフ着用禁止が、国際的な論議の対象になった。

《主題》

地域ごとの差異を考えながら、アジア・アフリカにおける植民地独立の過程とその後の動向を論じなさい

《副題》

ヨーロッパ諸国それぞれの植民地政策の差異に加えて、社会主義や宗教運動などの影響も受けつつ、地域により異なる様相を呈する。

以上の点に留意しながら

2019年08月04日(日)

A
独立過程は交渉と戦争に分かれる。英領インドやエジプトでは、非暴力・不服従運動やワフド党との交渉によって、独立が認められた。フランスのアルジェリア戦争ディエンビエンフーの戦いとは対照的である。独立運動の鎮圧の目的としては、投下資本の維持が大きいと考えられる。インドシナにおける独立は共産勢力主体であったし、アルジェリアはコロンとアラブ人の間における農地を巡る争いがあった。穏健に独立したエジプトでもスエズ運河国有化に至ると、英国の派兵を招いている。次は同化政策に関して。フランスはアルジェリアやインドシナで同化政策を展開した。そのため、人民は均質化され、共産化が容易になり、これが上述の激烈な独立戦争の一因となった。また、同化政策の影響で、アルジェリアから旧宗主国フランスへの移民が拡大するが、宗教的標章法などによる政治理念と宗教の対立が生じている。一方、イギリスは支配地域の封建勢力などを温存・強化したため旧英領の共産化は少なく、その封建勢力との関係維持を継続する独立でもあった。その温存は民族的・宗教的対立等も招き、カシミール紛争の原因にもなった。最後はドイモイに関して。ベトナムは結局、資本主義を導入し発展する。その物理的中心はフランスが発展させた旧サイゴン市である。
(536字)

第2問 

問(1) 

中央ユーラシアの草原地帯に出現した遊牧民のなかでも、4世紀になるとフン族が西進し、それとともにユーラシア西部に大変動がおこっている。やがて、5世紀後半には遊牧民エフタルが台頭し、周辺の大国をおびやかした。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

(a) 5世紀におけるフン族の最盛期とその後について2行(60文字)以内で説明しなさい。

A

アッテイラがフン族を率い西欧まで進撃したが、カタラウヌムで敗北、ローマ略奪も中止した。彼の死後、フン族は瓦解した。(57文字)

(b) エフタルに苦しめられた西アジアの大国を中心とした6世紀半ばの情勢について、2行(60文字)以内で説明しなさい。

A

ササン朝ペルシアはホスロー1世の下、最盛期を迎えた。西方ではビザンツと争い、東方では突厥と組んでエフタルを挟撃した。(58文字)

第2問 

問(2) 

中央ユーラシアを横断する大草原に住む遊牧トルコ人は、イスラーム世界の拡大とともにこれとさまざまな関係をもつようになり、その一部はやがて西アジアに進出して政権を樹立しアラブ人やイラン人とならんで重要な役割をはたすことになった。

(a) 9世紀ごろになると、アッバース朝カリフの周辺にはトルコ人の姿が目立つようになった。彼らはアラビア語で何とよばれカリフは彼らをどのように用いたのか、2行(60文字)以内で説明しなさい。

A

マムルークと呼ばれ、騎兵の傭兵として用いられ、火器の流行までイスラム軍の中核として活躍した。階級的は奴隷軍人であった。(59文字)

第2問 

問(3)

匈奴以来、モンゴル高原にはしばしば強力な遊牧国家が誕生し、中国の脅威となった。あるものは長城を境にして中国と対峙し、あるものは長城を越えて支配を及ぼすなど、遊牧民族の動静は、中国の歴史に大きな影響を与えつづけた。

(a) 漢の武帝の対匈奴政策と西域政策とのかかわりについて、2行(60文字)以内で説明しなさい。

A

匈奴討伐・挟撃のため張騫を大月氏に派遣した。その為、西域の事情が判明し、進出、敦煌郡等の設置に至った。(59文字)

 

東大(世界史)

​2010年度

第1問

ヨーロッパ大陸のライン川・マース川のデルタ地帯をふくむ低地地方は、中世から現代まで歴史的に重要な役割をはたしてきた。この地方では早くから都市と産業が発達し、内陸と海域をむすぶ交易が展開した。このうち16世紀末に連邦として成立したオランダ(ネーデルラント)は、ヨーロッパの経済や文化の中心となったので、多くの人材が集まり、また海外に進出した。近代のオランダは植民地主義の国でもあった。

このようなオランダおよびオランダ系の人びとの世界史における役割について、中世末から、国家をこえた統合の進みつつある現在までの展望のなかで、論述しなさい。解答は解答欄(イ)に20行以内で記し、かならず以下の8つの語句を一度は用い、その語句に下線を付しなさい。

グロティウス   コーヒー   太平洋戦争   長崎   ニューヨーク

ハプスブルク家   マーストリヒト条約   南アフリカ戦争

…ゆげが解く前に考えたこと…

恐らく、他の予備校は

ニューヨークを、オランダ覇権喪失で使う。

南アフリカ戦争は、オランダ系移民の抵抗による、英国覇権の衰退で書く。

自分はあえて、それを避け、下記の解答を準備する。

他の予備校との違いを出したい。

​A

ハプスブルク家に対するカルヴァン派主体の独立戦争により、当時としては珍しい商工業者主体の共和政国家、ネーデルランド連邦共和国が成立した。この新興国家は、17世紀前半、世界初の株式会社、オランダ東印会社を生み、欧州唯一の対日通商国として長崎に出入りし、アンボイナ事件で香辛料貿易をほぼ独占し、世界覇権を獲得した。その後の覇権が、英米と推移することを考えると、蘭国の世界制覇はカルヴァン派による世界支配の始まりと言える。オランダで発達した世界金融も、覇権の推移通り、ロンドン、ニューヨークへと移っていく。カトリックの影響が薄いオランダが生み出したグロティウスは蘭国擁護の『海洋自由論』や『戦争と平和の法』を著し、主権国家体制や自然法思想を大きく進展させ、国際法の父と呼ばれた。しかし、一方で自然権思想への矛盾もあった。蘭領東印度はコーヒー等の商品作物の強制栽培により飢餓輸出を起こしたし、太平洋戦争後もインドネシアの独立を蘭国は認めず、独立戦争に至った。また、1899年開始の南アフリカ戦争後も、オランダ系移民はその優位を維持するアパルトヘイトを長期に渡って存続させた。だが、オランダは再び光をもたらす。二度の大戦を経験し民族主義に懐疑的になった欧州は、ベネルクス三国の親密性やその根底にある自然法思想を再評価し、ECSCを創設・発展させ、マーストリヒト条約によりコスモポリタニズム的なEU結成に至った。(597マス・文字…数字は二文字で1マス扱い)

…問題に対する考察…

主題は「オランダ・オランダ人の世界史における役割」

以下は、かなり単純化。(東大の問題って、いかに世界史を単純化するかって話だから…)

役割その1

今日の商業・金融の基礎を築いた役割(オランダの資本主義・覇権主義)

… ハプスブルク家から独立し

… カルヴァン派により建国→資本主義

… 長崎 ニューヨーク

役割その2

主権国家体制を築いた。(オランダの理性)

… グロティウス

役割その3

自然法思想はEUへと繋がった。(オランダの理性)

… グロティウス

… マーストリヒト条約

「オランダは再び光をもたらす。」啓蒙思想(自然権思想)を意識した。技巧に凝ったわけではない。

啓蒙=enlightenment

… しかし、一方で

役割その4

列強としての支配(オランダの反理性・民族主義的なエゴ)

… コーヒー等の強制栽培制度

… 太平洋戦争後も植民地主義に固執

… 南アフリカ戦争後のアパルトヘイト

〈 他の予備校の解答に関して 〉

河合塾の解答は、比較的良くできていると思った。

具体的には、

主題である「オランダの世界史における役割」について、ちゃんと記述がある。

例えば、

「株式会社制度や国債発行などの金融財政システムも、名誉革命後のイギリスに継承された。」

「コーヒーやサトウキビ栽培などの植民地経営を開始し、ヨーロッパ植民地主義の先駆となった。」

ちゃんと役割を書いている。

河合塾の解答

http://kaisoku.kawai-juku.ac.jp/nyushi/honshi/10/t01.html より引用

↓ ↓ ↓

中世末にバルト海交易に進出したオランダは、近世にかけてエルベ川以東の穀物を西欧へ供給し、東欧を従属下に置いた。16世紀後半にはハプスブルク家に対し独立戦争を行い、旧教に対する新教の宗教戦争を先導し、新教徒の商工業者や文化人を吸収した。独立後はバタヴィア、台湾、長崎を拠点に香辛料貿易とアジア域内貿易に参入し、大西洋交易にも進出してニューヨークの原型を建設するなど商業覇権を確立した。アムステルダムは国際商業・金融の中心となり、この時期にグロティウスは海洋の自由を主張し、三十年戦争に際し国際法を提唱して主権国家体制を秩序づけた。商業覇権は、航海法の制定や英蘭戦争など重商主義により台頭したイギリスに移った。株式会社制度や国債発行などの金融財政システムも、名誉革命後のイギリスに継承された。17世紀末以後のオランダは、東南アジアの諸島部でコーヒーやサトウキビ栽培などの植民地経営を開始し、ヨーロッパの植民地主義の先駆となった。アフリカ南部のブーア人国家は南アフリカ戦争でイギリスに併合されたが、これを機にイギリスが光栄ある孤立を放棄したことは、第一次世界大戦に向かう同盟外交の契機となった。オランダの植民地帝国は、太平洋戦争でインドネシアを日本に占領された後、戦後の民族独立運動により解体に向かった。こうしたなか主権を超克する欧州統合に当初から参画したオランダは、マーストリヒト条約の調印の場となった。

このタイプの問題の解答って、下手すれば、オランダがやったことをただ並べてしまうことになりかねない。ゆげも気をつけねば…

第2問 

問1

アジア各地には古くからそれぞれ独自の知の体系が発展し、それらを支える知識人たちも存在した。そして16世紀以降ヨーロッパの知識・学問に接するようになるなかで、それらは次第に変容していった。アジア諸地域における知識・学問や知識人の活動に関する以下の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(口)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(3)の番号を付して記しなさい。

問(1) 読書人などとよばれた中国前近代の知識人にとって儒学と詩文は必須の教養であった。これらはいずれも漢代までの知的営為の集積を背後にもつ。この集積は時として想起され、現代に至るまでその時々の中国社会に大きな影響を与えることがあった。以下の(a)・(b)の問いに冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

(a) それまで複数の有力な思想の一つにすぎなかった儒学が、他の思想とは異なる特別な地位を与えられたのは前漢半ばであった。そのきっかけとなった出来事について2行以内で説明しなさい。

ほとんどの予備校は、董仲舒から書いているが、ゆげは呉楚七国の乱から書くべきだと思う。

​A

景帝が呉楚七国の乱を鎮圧した結果、武帝の代に中央集権が進み、官吏登用の必要性から、董仲舒が儒学の官学化を献策した。(57文字)

(b) 唐代に入ると詩文には様々な変化が起こった。文章については唐代中期以降、漢代以前に戻ろうとする復古的な気運が生まれた。唐代におけるその気運について2行以内で説明しなさい。

A

四六駢儷体等、技巧に走りすぎた作風を否定し、司馬遷の『史記』の様な力強い散文への回帰が韓愈・柳宗元により求められた。(58文字)

第2問 

問2

14世紀半ば、東アジアは元の衰退にともない一時的に混乱した。しかし、1368年に明が建国されると、再び新たな安定の時期を迎え、知識人たちも活発に活動した。1392年に成立した朝鮮(李氏朝鮮)も、明の諸制度を取り入れながら繁栄し、知識人による文化事業が盛んにおこなわれた。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

(a) 最15世紀前半の朝鮮でなされた特徴的な文化事業について2行以内で説明しなさい。

A

銅活字の印刷が行われ、その過程から、庶民のために、極めて合理的な訓民正音が世宗により制定された。(48文字)

(b) 明の末期になると、中国の知識人たちは、イエズス会宣教師がもたらしたヨーロッパの科学技術に強い関心を示した。その代表的な人物である徐光啓の活動について2行以内で説明しなさい。

A

イエズス会を積極的に受け入れ、マテオ=リッチと『幾何原本』、アダム=シャールと『崇禎暦書』、自身は『農政全書』を著した。(60文字)

問3

18世紀後半以降、ヨーロッパの侵略や圧力にさらされるようになると、アジアの知識人は自国の文化の再生や政治・経済の再建を目指して改革運動をはじめた。かれらは、ヨーロッパの知識を吸収しつつ近代化・西欧化を推進しようとするグループと逆に伝統の本来の姿を復活させようとするグループとに分かれて論争し合い、政治運動も展開した。これらの改革運動に関する以下の(a)~(c)の問いに、冒頭に(a)~(c)を付して答えなさい。

(a) 西アジアのアラビア半島ではワッハーブ派が勢力を拡大した。この運動について3行以内で説明しなさい。

A

聖者崇拝やスーフィズムを否定した原理主義運動。ワッハーブ派はオスマン帝国からの独立に、二度、挫折したが、最終的にサウード家と英国支援により、サウジアラビアの建国に至った。(85文字)

(c) 中国では、曾国藩・李鴻章などの官僚グループが洋務運動とよばれる改革を進めた。この運動の性格について3行以内で説明しなさい。

A

同治中興期に、漢人官僚が主体となり、「中体西用」の精神の下、主に軍事・産業等の技術面の西欧化を図り、政治体制・思想等は維持された特徴を持つ。その限界性は清仏・日清戦争に表れた。(88文字)

東大(世界史)

​2009年度

第1問

次の文章は日本国憲法第二十条である。

第二十条

信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

2. 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

3. 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

この条文に見られるような政治と宗教の関係についての考えは、18世紀後半以降、アメリカやフランスにおける革命を経て、しだいに世界の多くの国々で力をもつようになった。

それ以前の時期、世界各地の政治権力は、その支配領域内の宗教・宗派とそれらに属する人々をどのように取り扱っていたか。18世紀前半までの西ヨーロッパ、西アジア、東アジアにおける具体的な実例を挙げ、この3つの地域の特徴を比較して、解答欄(イ)に20行以内(600字)で論じなさい。その際に、次の7つの語句を必ず一度は用い、その語句に下線を付しなさい。

ジズヤ   ミッレト   首長法   理藩院   ダライ=ラマ   領邦教会制   ナントの王令廃止

《期間》18世紀前半まで

《主題》三地域における政治権力の宗教に対する取り扱いの比較

西ヨーロッパ … 不寛容

西アジア … 条件付きで寛容

東アジア … 寛容

A

概して、西欧は政治権力が宗教的権威を利用し、他宗教や少数宗派には不寛容であった。古代ローマ帝国はキリスト教を公認・国教化し、それに伴い政治権力が公会議を主催し教義を統一させ異端を追放した。近世においては、主権国家の形成の手段として宗教は利用された。テューダー朝は首長法により教皇権威を排除し聖俗両権を獲得した。ブルボン朝もガリカニスムによるフランス統合を目指した。ドイツの領邦教会制も権力が宗教を支配するシステムであった。そして、上記の宗教的権威を伴う西欧の主権国家は不寛容な宗教政策を採った。その例として、事実上のユグノー追放令にあたるナントの王令廃止があげられる。西アジアにおいて、上記の首長法やガリカニスムにあたるのは、オスマン帝国によるスルタン=カリフ制である。しかしながら、オスマン帝国の宗教政策は寛容であった。ジズヤの支払いで個人の信仰の自由は保障され、オスマン治下では宗教別共同体ミッレトも存在していた。最後に東アジアに関して。同地の政治権力は宗教への依存が少ない。但し、この説明は、儒教は宗教でないことを前提としている。また、三武一宗の法難等の例外もあるが、他宗教・他宗派への弾圧は少なく、極めて寛容と言える。清代においても、理藩院によって周辺民族は自治を許され、その宗教は尊重された。具体例として、清朝はダライ=ラマを中心としたチベット仏教に対し、寛容的態度を採った。(593文字)

第2問 

問1

人口集中地としての都市は、古来、一定地域の中心として人々の活動の重要な場であり続けてきた。それらの都市は、周囲の都市や農村との関係に応じて、都市ごとに異なる機能を果たしてきたが、ある特定の地域や時代に共通する外観や特徴を示す場合もある。以上の点をふまえて、次の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(3)の番号を付して記しなさい。

紀元前8世紀のエーゲ海周辺ではポリスとよばれる都市が古代ギリシア人によって形づくられた。ポリスはその後、地中海・黒海沿岸地域にひろがり、その数は1000を超え、ギリシア古典文明を生み出す基盤となった。ポリスはそれぞれが独立した都市国家であったため、ギリシア人は政治的には分裂状態にあったが、他方、(b)文化的には一つの民族であるという共通の認識をもっていた。下線部(a)・(b)に対応する以下の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

(a) ポリスの形成過程を2行以内で説明しなさい。

A

アテネ等では貴族などの富裕者が集団防衛のために集住してポリスを形成した。スパルタ等は先住民を支配してポリスを形成した。(59)

(b) この共通の認識を支えた諸要素を、2行以内で説明しなさい。

A

同一言語を使用し、自分達を英雄ヘレンの子孫と考え、同じオリンポス12神を崇拝し、それに伴う古代オリンピックに参加していた。(60)

問2

中国においては、新石器時代以来、城壁都市が建設され、やがて君主をいただく国となった。そうした国々を従えた大国のいくつかは、王朝として知られている。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b) を付して答えなさい。

(a) 最古とされる王朝の遺跡が20世紀初頭に発掘された。そこで出土した記録は、王朝の政治がどう行われたかを証言している。その政治の特徴を2行以内で説明しなさい。

A

亀の甲の亀裂などで吉凶を占い、その絶対的な神意に王が従う神権政治が行われた。(38)

(b) その後、紀元前11世紀に華北に勢力をのばした別の王朝は、首都の移転により時代区分がなされる。移転前と移転後の首都名を挙げ、移転にともなう政治的変化を2行以内で説明しなさい。

A

犬戎の侵入により鎬京から洛邑に遷都し、周王室の実力は低下したが権威は保持し春秋の五覇が「尊王攘夷」の下、周王室を支えた。(60)

問3

西ヨーロッパでは、11世紀ころから商業活動が活発化し、さびれていた古い都市が復活するとともに、新しい都市も生まれた。(a)地中海沿岸や北海・バルト海沿岸の都市のいくつかは、遠隔地交易によって莫大な富を蓄積し、経済的繁栄を享受することになった。(b)また、強い政治力をもち独立した都市のなかには、その安全と利益を守るために、都市どうしで同盟を結ぶところも出てきた。下線部(a)・(b)に対応する以下の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えない。

(a) 地中海における遠隔地交易を代表する東方交易について、2行以内で説明しなさい。

A

レバント貿易とも言われ、主にイタリアの商人がイスラム商人と銀と香料を交換した。十字軍以降活発になり大航海時代に衰退した。(60)

(b) 北イタリアに結成された都市同盟について、2行以内で説明しなさい。

A

ミラノを盟主としたロンバルディア同盟は交易ネットワークのみならず神聖ローマ帝国を撃退する等、封建勢力への対抗力を持った。(60)

 
 

東大(世界史)

​2008年度

第1問

1871年から73年にかけて,岩倉具視を特命全権大使とする日本政府の使節団は,合衆国とヨーロッパ諸国を歴訪し,アジアの海港都市に寄航しながら帰国した。その記録『米欧回覧実記』のうち,イギリスにあてられた巻は,「この連邦王国の……形勢,位置,広狭,および人口はほとんどわが邦と相比較す。ゆえにこの国の人は,日本を東洋の英国と言う。しかれども営業力をもって論ずれば,隔たりもはなはだし」と述べている。その帰路,アジア各地の人々の状態をみた著者は,「ここに感慨すること少なからず」と記している。(引用は久米邦武『米欧回覧実記』による。現代的表記に改めた所もある。)

世界の諸地域はこのころ重要な転機にあった。世界史が大きなうねりをみせた1850年ころから70年代までの間に,日本をふくむ諸地域がどのようにパクス・ブリタニカに組み込まれ,また対抗したのかについて,解答欄(イ)に18行以内で論述しなさい。その際に,以下の9つの語句を必ず一度は用い,その語句に下線を付しなさい。

インド大反乱   クリミア戦争   江華島事件   総理衙門  第1回万国博覧会

日米修好通商条約   ビスマルク   ミドハト憲法   綿花プランテーション

《期間》 1850年ころから70年代までの間に

《主題》 諸地域がどのようにパックス・ブリタニカに組み込まれ、諸地域がどのようにパックス・ブリタニカに対抗したのか

A 2018.11.13 眠い朝バージョン
第1回万国博覧会に見られるように、「世界の工場」となった英国は、各地を原料供給地・市場・資本投下先に組み込もうとした。その影響は英領だけでなく、米国南部の綿花プランテーションにまで及び、クリミア戦争では、トルコへの巨大な貸付にまで及んだ。また、英国はアロー戦争によって中国市場の拡大を迫るだけでなく、欧州的外交を強制させ総理衙門を設置させた。以下、抵抗に関して述べる。インド大反乱は、前近代的抵抗であった為、敗北したと評価された。故に、対抗には近代化急務という考えが強くなった。その近代的抵抗一つ目は国家統合である。日独伊米は内戦等を経て中央集権国家を作った。英国の市場化を防いだビスマルクの保護関税政策も、米国南部における英国の影響力の排除も中央集権が基盤である。その中央集権はドイツ帝国成立と南北戦争によって成された。二つ目は、立憲制・議会主義への移行である。ミドハト憲法の制定などがそれに当たる。三つ目は、帝国主義に対して、帝国主義国家となっての対抗である。日米修好通商条約で市場開放を強いられた日本が、江華島事件により朝鮮に対して、同じように不平等条約を強いたのが例である。四つ目は自由主義的改革である。クリミア戦争で敗北したロシアが農奴解放令を出したのがその例である。(539

 

 

第2問 

問1

人類の歴史において、領土およびその境界は、しばしば政治的な争いや取引の対象となってきた。そして、過去に決められた領土や境界のあり方は、さまざまな形で現代世界の成り立ちに影を投げかけている。

領土と境界の画定をめぐる歴史上の出来事に関する以下の三つの設問に答えなさい。

1960年代,ソヴィエト連邦と中華人民共和国との間で政治的な対立が深まり,1969年には,アムール川(黒竜江)の支流ウスリー川にある中洲の領有をめぐって武力衝突が発生した。この両河川流域の領土帰属は,19世紀半ばにロシアが清と結んだ二つの条約で定められていた。これら二つの条約が結ばれた経緯とその内容について,4行以内で説明しなさい。

A

1858年、アロー戦争で清朝が混乱している中、露国はネルチンスク条約で定められた国境を越え南下しアイグン条約で黒竜江以北の領有を清朝に認めさせた。1860年には同戦争における清朝・英仏間の仲介の代償として、北京条約で沿海州は露国領となった。(118字 数字は2文字で1マス扱い)

第2問 

問2

ゴラン高原をめぐるイスラエルとシリアの係争は,高原の西の境界に関する見解の不一致によっても複雑化している。イスラエルは(a)1923年に定められた境界を,シリアは(b)1967年6月4日時点での実効的な境界を主張している。この背景には,乾燥地帯では特に切実な水資源の奪い合いという問題もある。下線部(a)・(b)に対応する以下の問いに,冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

(a) この境界は,当時のいかなる領域間の境界として定められたものか,2行以内で説明しなさい。

A

サイクス-ピコ協定に基づき国際連盟からの委任統治という形で、シリアを仏国、パレスチナを英国支配下に置いた際の境界。(60文字)

(b) この翌日に勃発した戦争について,2行以内で説明しなさい。

A

第3次中東戦争でイスラエル軍が圧倒的に勝利し、ガザ地区、シナイ半島、ヨルダン川西岸等、占領地を大幅に拡大した。(59文字)

第3問

ヨーロッパ連合(EU)の直接の起源となったヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)は,ドイツとフランスの間の領土と資源をめぐる長年にわたる争いの解消と永続的な和解の構築を目指していた。ヨーロッパ議会をはじめとして和解を象徴する諸機関が存在しているアルザスの領有も,たびたび独仏対立の一因となってきた。このアルザスの1648年から第一次世界大戦後に至る帰属の変遷について,4行以内で説明しなさい。

A

1648年のウェストファリア条約で神聖ローマ帝国領アルザスは仏領になった。普仏戦争の講和条約で、アルザスは1871年にドイツ帝国領になった。その後、第一次世界大戦のヴェルサイユ条約でアルザスは戦勝国の仏領なった。(102文字…数字は2文字で1マス扱い)

 

東大(世界史)

​2007年度

第1問

古来,世界の大多数の地域で,農業は人間の生命維持のために基礎食糧を提供してきた。それゆえ,農業生産の変動は,人口の増減と密接に連動した。耕地の拡大,農法の改良,新作物の伝播などは,人口成長の前提をなすと同時に,やがて商品作物栽培や工業化を促し,分業発展と経済成長の原動力にもなった。しかしその反面,凶作による飢饉は,世界各地にたびたび危機をもたらした。

以上の論点をふまえて,ほぼ11世紀から19世紀までに生じた農業生産の変化とその意義を述べなさい。解答は解答欄(イ)に17行以内(510文字)で記入し,下記の8つの語句を必ず一回は用いたうえで,その語句の部分に下線を付しなさい。

湖広熟すれば天下足る   アイルランド   トウモロコシ   農業革命

穀物法廃止   三圃制   アンデス   占城稲

《期間》ほぼ11世紀(中世農業革命)から19世紀(移民の世紀)まで

《主題》農業生産の変化とその意義

《論点》

農業生産変動と人口増減は連動

商品作物・分業発展 → +経済成長 -飢餓輸出

《東大の意図》

農業の発展は、食料確保、商工業の発展をもたらす一方、分業体制を生み、モノカルチャー経済、飢餓輸出、生活不安定な工業労働者を生み出した

簡単にいうと、世界システム論の形成と弊害を書けということ

《タームの関連もの》

三圃制からノーフォーク農法 農業革命

占城稲 江南開発 江浙熟すれば天下たる→湖広熟すれば天下足る

アンデスのイモ 人口増大 アイルランドのジャガイモ飢饉

農業革命は中世で使うかノーフォーク農法時で使うかわからないので、両者で使うべきか悩む

A

欧州中世後期、三圃制等の導入は余剰食糧を生み、商工業、貨幣経済を発展させ農奴の地位を向上させた。これに対する封建反動に失敗した西欧は貨幣経済が維持され、ますます工業化に成功し、反動に成功した東欧は西欧への食料供給地となり、欧州内の分業体制が構築された。また英国の農業革命による資本主義的農業経営は、農民を生活不安定な工業・農業労働者へ転落させ、その低賃金は英国産業革命を促進させ、世界的にも分業体制の構築を勧めた。工業化の一方で、英国は大陸封鎖令による食料難の経験から、自給率回復を図った。しかし、アンデス原産であるジャガイモを主食とするアイルランドで飢饉が生じ、食料輸入の必要から穀物法廃止に至った。宋では占城稲導入により人口は爆発的に増大し、商工業も発展した。明清代のトウモロコシ栽培はそれを加速させ、江浙は商品作物の生産地となった為、穀倉地帯は長江中流域に移転し、「湖広熟すれば天下足る」と呼ばれた。19世紀、産業革命により中核地域となった欧米諸国はゴム、茶、砂糖、綿花等のプランテーションを経営し、その労働力として人口の多い中国、印度から苦力等を導入し、世界的分業体制を展開し植民地等にモノカルチャー経済を強いた。(509文字 数字は2文字1マス)

 

 

第2問 

問1

(a)古代メソポタミアと古代エジプトにおける暦とその発達の背景について,3行(90字)以内で説明しなさい。

A

両者とも農業地域のため暦を必要とし、メソポタミアでは占星術の発達から月の満ち欠けを基準とする太陰暦が発達し、エジプトではナイル川の定期的な氾濫や天体観測により太陽暦が生み出された。(90文字)

 

(b)イスラーム教徒独自の暦が,他の暦と併用されることが多かった最大の理由は何か。2行(60字)以内で説明しなさい。

A

ヒジュラを元年とするイスラーム暦はその宗教的特性が強い事、また、太陰暦であり農耕地域には使用が難しかった事があげられる。(60字)

問2

(a)フランスでは,18世紀末と19世紀初めに暦の制度が変更された。これらの変更について,2行(60字)以内で説明しなさい。

A

山岳派はグレゴリオ暦を改め革命暦を採用した。その後、ナポレオンはカトリックである農民を尊重しグレゴリオ暦に復帰させた。(59字)

(b)ロシアでも,20世紀初めに暦の制度が変更された。この変更について,1行(30字)以内で説明しなさい。

A

ロシア革命により、ユリウス暦からグレゴリオ暦に移行した。(30字)

 

問3

中国では古くから,天体観測に基づく暦が作られていたが,支配者の権威を示したり,日食など天文事象の予告の正確さを期するため,暦法が改変されていった。元~清代の中国における暦法の変遷について,4行(120字)以内で説明しなさい。

A

元代にイスラーム科学技術の導入により郭守敬が授時暦を作成した。明代には皇帝権威を知らしめるため一世一元の制が導入された。明末にはアダム=シャールにより崇禎暦が作られたが、崇禎帝が自殺し明は滅亡した為、清代には時憲暦と名前を変え使用された。(119文字)

第3問 

問10

中国で辛亥革命が起こると,外モンゴルでは中国からの独立を目指す運動が進み,その後ソ連の援助を得て,社会主義のモンゴル人民共和国が成立した。ソ連崩壊前後のこの国の政治・経済的な変化について,1行以内で説明しなさい。

A

共産党独裁から民主主義、社会主義経済から市場経済へ移行した。(30文字)

 

東大(世界史)

​2006年度

第1問

近代以降のヨーロッパでは主権国家が誕生し,民主主義が成長した反面,各地で戦争が多発するという一見矛盾した傾向が見られた。それは,国内社会の民主化が国民意識の高揚をもたらし,対外戦争を支える国内的基盤を強化したためであった。他方,国際法を制定したり,国際機関を設立することによって戦争の勃発を防ぐ努力もなされた。

このように戦争を助長したり,あるいは戦争を抑制したりする傾向が,三十年戦争,フランス革命戦争,第一次世界大戦という3つの時期にどのように現れたのかについて,17行(510文字)以内で説明しなさい。その際に,以下の8つの語句を必ず一度は用い,その語句の部分に下線を付しなさい。

ウェストファリア条約  国際連盟   十四カ条   『戦争と平和の法』

総力戦   徴兵制  ナショナリズム   平和に関する布告

主題:戦争を助長したり,あるいは戦争を抑制したりする傾向が、どのように現れたのか

時期:三十年戦争,フランス革命戦争,第一次世界大戦という3つの時期

A

三十年戦争期。神の平和は無効化し、無秩序な破壊が展開された。加えて、理念的に全欧州を統合する神聖ローマ帝国も死亡した。しかしながら、ウェストファリア条約の締結に見られる様に主権国家体制による秩序形成や、その更なる具体化案である戦時国際法を訴える『戦争と平和の法』も著され、「抑制」の傾向もあった。フランス革命期。国民国家の形成は徴兵制を可能とした。戦争に国民の同意が必要になった事は「抑制」かもしれない。しかし、徴兵制は最終的に総力戦を招いた。仏国民軍は遠征と共にナショナリズムを輸出し、各地でも、国民軍が編成されるようになり、「助長」させた。一次大戦期。ウェストファリア体制下において、自国の安全保障をそれぞれで追求した結果、同大戦は勃発した。そのため、初の集団安全保障体制である国際連盟が発足した。しかし、その抑制機能には限界があった。同大戦中に出された平和に関する布告は、即時停戦を訴えたものなので、「抑制」のように思える。しかし、同時に発せられた民族自決の原則は、各地で民族独立運動を引き起こし、「助長」させた。平和十四ヵ条も、戦後秩序を提示し、継戦に対する国民の同意を得たことを考えれば「助長」である。

(506文字)

第2問 

問1

インド洋世界の中心に位置するインド亜大陸は,古来,地中海から東南アジア・中国までを結ぶ東西海上交通の結節点をなし,また,中央ユーラシアとも,南北にのびる陸のルートを通じてつながりを持ち続けてきた。以上の背景をふまえて,次の3つの設問に答えなさい。解答にあたっては,設問ごとに行を改め,冒頭に(1)~(3)の番号を付して記しなさい。

インド亜大陸へのイスラームの定着は海陸両方の経路から進行した。そのうち,カイバル峠を通るルートによる定着過程の,10世紀末から16世紀前半にかけての展開を,政治的側面と文化的側面の双方にふれながら4行以内(120文字)で説明しなさい。

A

ガズナ朝やゴール朝がインド北西から侵攻し、その後、インドを拠点としたデリー=スルタン朝、ムガル帝国の建国に至った。ほとんどがトルコ系王朝で、官僚はイラン系だった。イスラムの影響が特に強い北西部はウルドゥー語やシク教等の融合文化が展開した。(119文字)

問2

インド洋地域で,イギリスやフランスの東インド会社は,インド綿布を中心にした貿易活動から植民地支配へと進んだ。18世紀半ば頃のイギリス東インド会社によるインドの植民地化過程を,フランスとの関係に留意して4行以内(120文字)で説明しなさい。

A

インド支配権を巡るプラッシーの戦いやカーナティック戦争で、フランスと土侯連合を英国は打倒した。英国はベンガル地方の徴税権を獲得し、銭納を要求された住民は商品作物栽培に従事する必要が生じ、英本国を中心とした経済圏に組み込まれていった。(116文字)

問3

ヨーロッパ列強にとって,インドにつらなるルートの重要性が増していくなかで,ヨーロッパとインド洋を結ぶ要衝であるエジプトは,次第に国際政治の焦点となっていった。18世紀末から20世紀中葉にいたるエジプトをめぐる国際関係について,以下の語句のすべてを少なくとも1回用いて,4行以内(120文字)で説明しなさい。

ナポレオン スエズ運河 ナセル

A

ナポレオンによるオスマン領エジプト遠征の失敗後、列強の介入もありムハンマド=アリー朝が創設されスエズ運河を建設するが、英国が買収し植民地化を進めた。独立したエジプトは、ナセルによりスエズ運河国有化を進めスエズ戦争に至るが外交的に勝利した。(119文字)

 

東大(世界史)

​2005年度

第1問

人類の歴史において,戦争は多くの苦悩と惨禍をもたらすと同時に,それを乗り越えて平和と解放を希求するさまざまな努力を生みだす契機となった。

第二次世界大戦は1945年に終結したが,それ以前から連合国側ではさまざまな戦後構想が練られており,これらは国際連合など新しい国際秩序の枠組みに帰結した。しかし,国際連合の成立がただちに世界平和をもたらしたわけではなく,米ソの対立と各地の民族運動などが結びついて新たな紛争が起こっていった。たとえば,中国では抗日戦争を戦っているなかでも国民党と共産党の勢力争いが激化するなど,戦後の冷戦につながる火種が存在していた。

第二次世界大戦中に生じた出来事が,いかなる形で1950年代までの世界のありかたに影響を与えたのかについて,解答欄に17行以内(510文字)で説明しなさい。その際に,以下の8つの語句を必ず一度は用い,その語句の部分に下線を付しなさい。なお,EECに付した( )内の語句は解答に記入しなくてもよい。

大西洋憲章   日本国憲法   台湾   金日成   東ドイツ   EEC(ヨーロッパ経済共同体)

アウシュヴィッツ   パレスチナ難民

A

一点目、民族分断の件。同大戦はファシズムとそれ以外の戦争だった。しかし、第二戦線問題等は連合国内部を対立させ民族分断に至らしめた。以下、その例を三つ。ナチス敗北後、ドイツは東西に占領され、そのまま西ドイツと東ドイツが建国され、分断国家となった。旧日本領朝鮮も米ソにより分割占領され、抗日武装闘争の指導者とされる金日成を中心に社会主義の北朝鮮が、南には米国指導下、韓国が建国された。国共内戦においては、抗日の主力となった共産党が勝利し、敗北した自由主義陣営の蔣介石は台湾に逃れた。台湾を仮に中国とするならば、中国も分断国家と解釈できる。二点目、民族主義に関して。大戦勃発・拡大の要因となった独仏の民族主義に、戦後否定的となり、ECSCとその発展版であるEECが設立された。一方、アウシュビッツに見られる様に、民族的苦難を経験したユダヤ人はシオニズムを強め、イスラエル建国に至った。三点目、大西洋憲章とポツダム宣言に関して。大戦中に同憲章・宣言により、崇高な戦後秩序が掲げられた。しかし、国連は分割案に失敗し、シオニズムがパレスチナ難民を産み出した。また、日本国憲法に見られる非武装化も朝鮮戦争に伴い再軍備に至ってしまった。(510)

 

東大(世界史)

​2004年度

第1問

1985年のプラザ合意後、金融の国際化が著しく進んでいる。1997年のアジア金融危機が示しているように、現在では一国の経済は世界経済の変動と直結している。世界経済の一体化は16,17世紀に大量の銀が世界市場に供給されたことに始まる。19世紀には植民地のネットワークを通じて、銀行制度が世界化し、近代国際金融制度が始まった。19世紀に西欧諸国が金本位制に移行するなかで、東アジアでは依然として銀貨が国際交易の基軸貨幣であった。この東アジア国際交易体制は、1930年代に、中国が最終的に流通を禁止するまで続いた。

以上を念頭におきながら、16-18世紀における銀を中心とした世界経済の一体化の流れを概観せよ。解答は、16行(480文字)以内とし、下記の8つの語句を必ず1回は用いたうえで、その語句に下線を付せ。なお、( )内の語句は記入しなくてもよい。

グーツヘルシャフト(農場領主制)   一条鞭法   価格革命   綿織物

日本銀   東インド会社   ポトシ   アントウェルペン(アントワープ)

 

A

大航海時代の重金主義の下、スペインが獲得した大量のメキシコ銀は主にマニラ経由で中国へ、ポトシ銀は主に欧州へ流入した。日本銀の流入も手伝って明代には銀納税制である一条鞭法が開始された。西欧への銀の急激な流入は価格革命を引き起こし定額貨幣地代に頼る封建領主を没落させ、かつ通貨供給量拡大により商工業が発展し、商工業者の経済的台頭は政治的台頭にまで至り、清教徒革命やネーデルランド独立戦争に至った。スペイン本国によりアントウェルペンは破壊されるが、その後のアムステルダムの繁栄に見られるように、フランドル、イングランド、ネーデルランド地方の経済的中核の地位は19世紀まで続いた。一方、東欧ではプロイセンのグーツヘルシャフトに見られるように封建反動に成功してしまい、農業地域として西欧に経済的に従属する立場となった。英蘭仏の西欧三国では東インド会社が設立され、オランダ東印会社は日本と独占通商権を獲得し、英国東印会社は軍事的にインドを押さえ綿織物を大量輸入していた。英国は18世紀になると、大西洋三角貿易による利潤を原資とした産業革命により、綿織物の国産化に成功した。(480)

 

 

第2問 

問1

地中海東岸からアラビア半島にかけての地域で、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教という3つの一神教が誕生した。これらの宗教と西アジア・地中海沿岸地域の国家や社会は、密接な関わりを持った。このことに関連する以下の3つの問いに答えよ。

新王国時代のエジプトから、ヘブライの民とよばれる人々は、モーセに率いられて脱出し、やがてパレスティナに定住の地を見出したという。前10世紀頃、ソロモン王の時代には栄華をきわめた。その後の数百年の間に、ヘブライ人は独自のユダヤ教を築きあげた。その成立過程について、彼らの王国の盛衰との関わりを考慮しながら、4行(120字)以内で説明せよ。

A

ソロモン王死後、ヘブライ王国は南北に分裂した。南のユダ王国滅亡に際して、新バビロニアにバビロン捕囚を強いられながらも、ユダヤ人は律法を遵守した。その後、アケメネス朝によりユ捕囚から解放されたユダヤ人はヤハウェ信仰を確信しユダヤ教は成立した。(120文字)

 

問2

キリスト教世界は8世紀から11世紀にかけて東西の教会に二分された。その2つの教会のいずれか一方と関わりの深いビザンツ帝国と神聖ローマ帝国とでは、皇帝と教会指導者との関係が大きく異なっている。11世紀後半を念頭において、その違いを4行(120文字)以内で説明せよ。

A

神聖ローマ帝国では俗権の皇帝と聖権のローマ教会が相互に補完し統治を展開していた。しかしながら、叙任権闘争により双方がその優越を主張するようになった。それに対し、東欧ではビザンツ皇帝が事実上聖俗両権を支配する、皇帝教皇主義が展開されていた。(119文字)

 

問3

カリフとは「代理人」の意味で、預言者ムハンマドの没後、その代理としてムスリム共同体(ウンマ)の指導者となった人のことを指す。単一のカリフをムスリム共同体全体の指導者とする考えは近代に至るまで根強いが、政治権力者としてのカリフの実態は初期と後代では異なっていた。7世紀前半と11世紀後半を比較し、その違いを3つあげて4行(120文字)以内で説明せよ。

A

一つ、正統カリフは選挙で選ばれたが、後代は世襲であった。二つ、正統カリフはムハンマドの後継者の性質が強かったが、後代はアッバース革命により神格化した。三つ、正統カリフは聖俗両権を保持したが、後代は大アミールやスルタンの前に世俗権力を失った。(120文字)

 

東大(世界史)

​2003年度

第1問

私たちは,情報革命の時代に生きており,世界の一体化は,ますます急速に進行している。人や物がひんぱんに往きかうだけでなく,情報はほとんど瞬時に全世界へ伝えられる。この背後には,運輸・通信技術の飛躍的な進歩があると言えよう。

歴史を振り返ると,運輸・通信手段の新展開が,大きな役割を果たした例は少なくない。特に,19世紀半ばから20世紀初頭にかけて,有線・無線の電信,電話,写真機,映画などの実用化がもたらされ,視聴覚メディアの革命も起こった。またこれらの技術革新は,欧米諸国がアジア・アフリカに侵略の手を伸ばしていく背景としても注目される。例えば,ロイター通信社は,世界の情報をイギリスに集め,大英帝国の海外発展を支えることになった。一方で,世界中で共有される情報や,交通手段の発展によって加速された人の移動は,各地の民族意識を刺激する要因ともなった。

運輸・通信手段の発展が,アジア・アフリカの植民地化をうながし,各地の民族意識を高めたことについて,下記の9つの語句を必ず1回は用いながら,論述しなさい。(510文字)

スエズ運河   汽船   バグダード鉄道   モールス信号   マルコ一ニ   義和団

日露戦争   イラン立憲革命   ガンディー

主題その1:

運輸・通信手段の発展が、アジア・アフリカの植民地化をうながし、

主題その2:

運輸・通信手段の発展が、各地の民族意識を高めたことについて

A 2019.10.27 
まず、運輸の発展が植民地化を促した事を述べる。汽船や鉄道・運河は、原料・製品の大量輸送のみならず、軍隊まで輸送し、植民地化を促した。故に、帝国主義列強はバグダード鉄道の敷設やスエズ運河開削・買収等を展開した。次に、通信の進展が植民地化を促した事を述べる。モールス信号は鉄道運行のために開発されたが、後に、電信事業として政府が整備し、産業化も図られた。そのため本国と植民地の連絡が迅速となり、植民地支配を容易にした。義和団に対する八カ国共同出兵が僅か二ヶ月で行われた事は好例である。それでは、逆に、運輸手段の発展が、民族意識を高めた事に関して述べる。スエズ運河や汽船・鉄道の発達はムスリムの巡礼を容易にし、パン=イスラム主義を伸張させた。これは、ウラマーが指導したイラン立憲革命やアラブ大反乱に影響を与えた。最後に、通信手段の発展が、民族意識を高めた事に関して述べる。電信事業は新聞業を発達させ、これは民族意識を高めた。日露戦争の勝利が、イラン立憲革命の要因ともなった。特にマルコーニの無線通信は、新聞・ラジオの速報性を強め、民族としての一体感を高めた。ガンディーの塩の行進に多くの大衆が参加したのはその好例と言える。(509
 

 

東大(世界史)

​2002年度

第1問

世界の都市を旅すると,東南アジアに限らず,オセアニアや南北アメリカ,ヨーロッパなど,至る所にチャイナ・タウンがあることに驚かされる。その起源を探ると,東南アジアの場合には,すでに宋から明の時代に,各地に中国出身者の集住する港が形成され始めていた。しかし,中国から海外への移住者が急増したのは,19世紀になってからであった。その際,各地に移住した中国人は低賃金の労働者として酷使されたり,ヨーロッパ系の移住者と競合して激しい排斥運動に直面したりした。たとえば,米国の場合,1882年には新たな中国人移民の流入を禁止する法律が制定された。米国がこのような中国人排斥法を廃止したのは第二次世界大戦中のことであり,大戦後にはふたたび中国からの移住者が増加した。

前述のような経緯の中で,19世紀から20世紀はじめに中国からの移民が南北アメリカや東南アジアで急増した背景には,どのような事情があったと考えられるか,また海外に移住した人々が中国本国の政治的な動きにどのような影響を与えたか,これらの点について,15行以内(450字)で述べよ。なお,以下に示した語句を一度は用い,使用した場所に必ず下線を付せ。

植民地奴隷制の廃止   サトウキビ・プランテーション   ゴールド・ラッシュ

海禁   アヘン戦争   海峡植民地   利権回収運動   孫文

主題:中国からの移民が南北アメリカや東南アジアで急増した背景

副題:海外に移住した人々が中国本国の政治的な動きにどのような影響を与えたか

時期:19世紀から20世紀はじめに

​A

移民のプッシュ要因から説明する。当時、過剰人口を抱えた中国の貧困層は海禁を犯してまで海外移住を展開していた。さらにアヘン戦争やアロー戦争の敗北によって、中国人の海外渡航が自由化されると、ますます移民は急増した。また、敗戦による欧米列強の経済進出は中国経済を破壊し、これも移民を増加させた。次にプル要因を説明したい。欧州の植民地奴隷制の廃止や米国奴隷解放などにより中国人低賃金労働者の需要は高まった。具体的にはゴールド・ラッシュに湧く大陸横断鉄道の建設作業やハワイ・インドネシアのサトウキビ・プランテーションに従事した。またマレーの錫鉱山・ゴムプランテーションでも苦力は活躍し、インドネシアとマレー半島の中間にある海峡植民地は苦力貿易で栄えた。最後に本国への影響を説明する。苦力は勤勉であり経済的実力を付け資本家として成功する者も多かった。華僑は他の移民と違い中国本国への政治意識が強く、その資金力やネットワークで利権回収運動孫文を中心とした中国同盟会の支援し、国外から清朝の封建制打破を目指した。(449文字)

生徒から指摘を受けて、「ハワイ」は不要かなと思った。問題は南北アメリカ・東南アジアだから。

 

 

第2問

(B) 

問5

ムガル帝国は,16~17世紀の間に宗教政策を大きく変えた。その変化を,関係する二人の皇帝の名を用い,3行(90字)以内で説明せよ。

A

アクバル帝はイスラムとヒンズーの融和を図り、ジズヤを廃止したが、その後のアウラングゼーブ帝は厳格なスンナ派で、ジズヤを復活させた。(65)

字数が余りすぎたので

アクバル帝はイスラムとヒンズーの融和を図りジズヤを廃止したが、その後のアウラングゼーブ帝は厳格なスンナ派でジズヤを復活させ、ヒンズー諸勢力はこれに抵抗し、インドは分裂状態に陥った。(90)

 

問6

オスマン帝国には,異教徒処遇の制度があった。その通称を記し,特徴を,2行(60字)以内で説明せよ。

A

デウシルメ制:主にバルカン半島に住むキリスト教徒の子弟をイスラム教へ改宗させ、高級官僚やイェニチェリに配属させた。(57)

ミッレト制:キリスト教徒やユダヤ教徒などの異教徒に対し、ジズヤの支払を条件に宗教別共同単位による自治を認めた。(55)

デウシルメ制よりミッレト制の方がいいだろう。

デウシルメ制は改宗により、異教徒でなくなってしまうから。

 

(C) 

問8

ムガル帝国とオスマン帝国には,それぞれジャーギール制,ティマール制と呼ばれる類似の制度がみられた。両者の共通の特徴を2行以内で記せ。

A

皇帝から直接、分与地の徴税権を与えられ、その経済力で軍備を維持し、戦時には皇帝のために出動した。(48)

 

東大(世界史)

​2000年度

第1問

大航海時代以降,アジアに関する詳しい情報がヨーロッパにもたらされると,特に18世紀フランスの知識人たちの間では,東方の大国である中国に対する関心が高まった。以下に示すように,中国の思想や社会制度に対する彼らの評価は,称賛もあり批判もあり,様々だった。彼らは中国を鏡として自国の問題点を認識したのであり,中国評価は彼らの社会思想と深く結びついている。

儒教は実に称賛に価する。儒教には迷信もないし,愚劣な伝説もない。また道理や自然を侮辱する教理もない。(略)四千年来,中国の識者は,最も単純な信仰を最善のものと考えてきた。(ヴォルテール)

ヨーロッパ諸国の政府においては一つの階級が存在していて,彼らこそが,生まれながらに,自身の道徳的資質とは無関係に優越した地位をもっているのだ。(略)ヨーロッパでは,凡庸な宰相,無知な役人,無能な将軍がこのような制度のおかげで多く存在しているが,中国ではこのような制度は決して生まれなかった。この国には世襲的貴族身分が全く存在しない。(レーナル)

共和国においては徳が必要であり,君主国においては名誉が必要であるように,専制政体の国においては「恐怖」が必要である。(略)中国は専制国家であり,その原理は恐怖である。(モンテスキュー)

これらの知識人がこのような議論をするに至った18世紀の時代背景,とりわけフランスと中国の状況にふれながら,彼らの思想のもつ歴史的意義について,15行以内(450文字)で述べよ。なお,以下に示した語句を一度は用い,使用した場所には必ず下線を付せ。

イエズス会   科挙   啓蒙   絶対王政

ナント勅令廃止   フランス革命   身分制度   文字の獄

 

A

清朝の禁書や文字の獄は、確かにナント勅令廃止と同じく、思想・信条・表現・宗教的自由の圧迫かもしれない。しかし、一方で、清朝は儒教思想、特に王道政治・徳治主義を基礎とした皇帝独裁体制を展開し、皇帝には人民に対する高い徳が求められていた。また、科挙制の下、能力と努力次第で高級官僚になれる事が出来た為、階級は一定の流動性を持った。それに対し、同時期のフランス絶対王政は民衆を圧迫する専制政治を展開し、僧侶・貴族の免税や高官世襲の特権を保持する身分制度が存在し、階級は固定的であった。上記の中国の状況がイエズス会からもたらされると、啓蒙思想家の中には中国を賛美する者が現れ、欧州大陸諸国の旧体制への批判が活性化した。啓蒙思想家は王権神授説を否定し、人民に政治権原がある社会契約説や、自然法思想等を展開し、『百科全書』の編集、執筆に尽力しアンシャン=レジーム打破を目指した。これらの思想は啓蒙専制君主を生み出したり、フランス革命を理論的に準備し、18世紀末以降の国民国家形成や自由主義の隆盛に繋がっていく。(449字)

 

東大(世界史)

​1997年度

第1問

20世紀の民族運動の展開を考えるさい、第1次世界大戦の前後の時期は大きな意味を持っている。この時期にはユーラシアの東西で旧来の帝国が崩壊し、その結果一部の地域では独立国家が生まれたが、未解決の問題も多く残った。それは、現代世界の民族と国家をめぐる紛争の原点ともなった。こうした旧来の帝国の解体の経過とその後の状況について、とくにそれぞれの帝国の解体過程の相違に留意しながら、解答欄(イ)に15行以内で述べよ。なお、下に示した語句を一度は用い、使用した場所には必ず下線を付せ。

民族自決   三民主義   少数民族   シオニズム   アラブ   モンゴル

オーストリア=ハンガリー   バルト三国

 

A

まず東欧。独墺は大戦に負け、露国は苦戦と続く対ソ干渉戦争で失地した。戦勝国英仏は、ドイツ包囲網と反共の防波堤構築を企図し、「民族自決」の名の下に、上記失地に新興国家を誕生させた。特に多民族国家オーストリア=ハンガリー帝国の解体は決定的となった。上記の通り、東欧は基本的に民族単位での独立だったので、バルト三国に見られるように小国家乱立となり、上述の防波堤は機能せず、二次大戦後、ソ連の影響下に入った。次に中東。戦勝国英仏は敗戦国トルコ領を分割占領し、サウジ建国も認めた。この様に、アラブ人地域は細分化された。そのため、シオニズムに対し、アラブ側は結集力に欠け劣勢となった。最後に東アジア。辛亥革命により清朝は解体した。しかし、モンゴル人民共和国建国の例外を除いて、中華民国と中華人民共和国は清朝の領土をほぼ継承した。これは三民主義における「民族の独立」が、漢民族の独立以外にも適用され、旧藩部を自治区として少数民族の自治が尊重されたためである。今日も維持されている中華帝国の政治経済力は大きい。(447

追記 :疲れ切った精神を鼓舞するため、あえて出題者に逆らう答案を作成した。

模範解答とは言えないが、議論を誘発するため、諸君に提示する。

 

東大(世界史)

​1996年度

第1問

18世紀後半にイギリスで始まった産業革命は、世界全体に工業社会の到来をもたらし、現代世界の形成に大きな役割を果たした。そのさい、人々はイギリスの覇権を「パクス=ロマーナ」(ローマの平和)になぞらえて、「パクス=ブリタニカ」と呼んだ。しかし、「パクス=ブリタニカ」の展開には、さまざまな地域において、これに対抗する動きが伴った。現代世界はこのような対抗関係を重ねる中で形作られたと言えよう。そこで、19世紀中ごろから20世紀50年代までの「パクス=ブリタニカ」の展開と衰退の歴史について、下に示した語句を用いて、15行(450字)以内で述べよ。なお、使用した語句に必ず下線を付せ。

自由貿易    南京条約    アラービー=パシャ    3C政策    マハトマ=ガンディー    宥和政策

マーシャル=プラン    スエズ運河国有化

主題:「パクス=ブリタニカ」の展開と衰退の歴史について

期間:19世紀中ごろから20世紀50年代まで

作業①:タームを時間順で並べる

「展開と衰退の歴史」・・・「展開」の場合、基本、時間順で書いた方がいい場合が多い。

故に、タームを強引にでも時間順に並べる。

自由貿易

南京条約

アラービー=パシャ

3C政策

宥和政策

マハトマ=ガンディー

マーシャル=プラン

スエズ運河国有化

う~ん、しっくり来ない

作業②:タームを性質上に分類する

東大は、主題の前の文章(以下、「前書き」)に、ヒントがある、というか、この歴史観で書け、という指定がある。

18世紀後半にイギリスで始まった産業革命は、世界全体に工業社会の到来をもたらし、現代世界の形成に大きな役割を果たした。

自由貿易 南京条約

そのさい、人々はイギリスの覇権を「パクス=ローマーナ」(ローマの平和)になぞらえて「パクス=ブリタニカ」と呼んだ。

3C政策

しかし、「パクス=ブリタニカ」の展開には、さまざまな地域において、これに対抗する多様な動きが伴った。

アラービー=パシャ マハトマ=ガンディー マーシャル=プラン スエズ運河国有化

宥和政策をどう分類するか?

現代世界はこのような対抗関係を重ねるなかで形作られたとも言えよう。

現代とは・・・

冷戦

二度の大戦

パックス=アメリカーナ

共産主義の台頭

植民地の独立

作業③:改めてテーマを吟味する

本題のパックス=ローマーナは、単純には「武力による平和」とされる。

この武力による平和は、武力を背景とした、秩序維持で、

一定の武力・国力を背景として、一定の秩序維持とまで解釈していいだろう。

上記を踏まえると、

「宥和政策を展開し、二次大戦になった」と書くのは単純すぎる。

パックス=ブリタニカの視点で書くべきだろう。

つまり、

宥和政策で、英国に一定の秩序維持能力があった・・とか

宥和政策の破綻に見られる様に、英国の影響力が低下している・・とか

A 2019.05.29 

英国はその工業製品を売るため、広い地域に自由貿易を強いた。1842年の南京条約や虎門寨追加条約等で、関税自主権等を奪ったのが好例である。資本輸出の段階に入った英国は、1875年にスエズ運河を買収し、そのエジプトの排外運動であるアラービー=パシャの乱も鎮圧している。この様に、19世紀、広範な地域が英国に従属したが、一方で、独国と米国は保護関税政策で対抗した。3Bと3C政策に見られる様に、英独は対立し二度の大戦を迎えた。確かに英国は独国に勝利したが、戦債発行により米英の資本関係は完全に逆転した。戦後のマーシャル=プランもその例と考えてよい。また、英国は世界中に資本主義そのものを輸出したが、それに対抗する共産主義も台頭した。そのソ連を単独で抑える力がなかった英国は宥和政策を採った。また、ソビエトが発表した「民族自決の原則」の影響は大きく、マハトマ=ガンディーの独立運動で英国はインドを失い、「民族自決の原則」の延長線にある資源ナショナリズムの盛り上がりで、スエズ運河国有化にも至ってしまった。(439文字)
 

昔の解答

19世紀中頃から末までは、大英帝国の発展期である。アヘン戦争に勝利し南京条約、アロー戦争による天津・北京条約で自由貿易を強いて、英国産業革命は隆盛を極めた。その利益は資本輸出を可能とし、1875年にスエズ運河を買収、同地のアラービー=パシャの乱も鎮圧し、エジプトを保護国化、3C政策を進めた。19世紀末から二次大戦までは、衰退とその脱却を主体的に試みた時期である。3C政策途上の南アフリカ戦争は英国に戦力の限界を知らしめ、日英同盟締結に至った。一次大戦後、その債務支払の為、英国はインドでの収奪を強めようとしたが、マハトマ=ガンディーの非暴力・不服従の抵抗にあい、欧州外交においても、主導した宥和政策が失敗し二次大戦に至った。二次大戦後、英国の衰退はその主体性を失うまでに至った。マーシャル=プランにより経済的に米国に依存、在英米軍基地の存続は軍事的依存と解釈できる。また、対外政策でも米国に服従・追従する。具体的事例として、英国はスエズ運河国有化に際し出兵したが、米国の批判により撤兵に至っている。(450)

 

東大(世界史)

​1990年度

第1問

第1次世界大戦は総力戦であり、植民地の人々も動員された結果、列強の国内はもとより、その支配地域も大きな変動に見舞われた。そのため、第1次世界大戦期から1920年代半ばにいたる約10年間には、世界各地で様々な性格をもつ大衆的な政治運動が高まることになった。この時期のヨーロッパとアジアにおける大衆的な政治運動の展開について、具体的な事例を挙げながら、20行以内で論ぜよ。解答は、解答用紙(イ)の欄に記せ。

 

一次大戦が多数の大衆的な政治運動 

A

2019.05.02  
一次大戦では大規模な徴兵が展開され、また、女性の社会進出が進んだ。それは、20 歳以上の男子と30 歳以上の女性に参政権を与える英国の第4 回選挙法改正を促し、その若年男子と女性らの投票行動によって、第一次マクドナルド労働党内閣の成立に至らしめた。また、大規模な徴兵により武装化された大衆は、総力戦の耐乏生活への不満からロシア革命・ドイ
ツ革命を引き起こし、ソヴィエト・レーテを形成し、王朝国家を打破して、社会主義・社会主義的国家を建設した。一次大戦は、植民地からも物的・人的資源を大規模に動員し、その際、戦後自治の約束をしたインドでは、その約束が反故にされたことから、第1 回非暴力不服従運動が展開された。欧州の大戦は、日本の経済を著しく成長させ、大正デモクラシーへ
と導いた。また、日本製品が中国市場を独占したことは、中国人の排日感情を高め、五・四運動の理由の一つとなった。大戦末期に、レーニン、ウィルソンが唱えた「民族自決」は特に大きな影響力を持ち、上述の第1 回非暴力不服従運動、五・四運動による段祺瑞内閣のヴェルサイユ条約調印拒否以外にも、三・一独立運動による文化政治への切り替えや、ワフド
党の台頭によるエジプトの独立にも影響を与えた。一次大戦で動員された大衆は、自らを動員する事を憶え、多数の大衆的な政治運動を高めるに至った。
(560

 

東大(世界史)

​1988年度

第1問

欧米において近代市民社会が形成されるにあたり、17世紀から19世紀初頭にかけて、さまざまな変革が生じたが、それらの変革の様相は地域によってそれぞれ異なっていた。そこで、イギリス、アメリカ、フランス、プロイセン(プロシア)の4つについて、以下の(A)、(B)の設問に、それぞれ10行(1行:30字)以内で答えよ。解答は冒頭に(A)、(B)の符号を付せ。

(注)解答において、イギリス、アメリカ、フランス、プロイセンを、それぞれ、英、米、仏、普、と表記してよい。

(A)イギリス革命(ピューリタン革命および名誉革命)とフランス革命に関し、革命を引き起こした原因と、革命がめざした目標について両革命を比較し、それぞれの革命の特色を述べよ。さらに、19世紀初頭のプロイセンの改革の特色と思われる点を指摘せよ。

A

英仏共にその革命の原因は、商工業者の台頭と財政難による彼らへの課税とその反発である。しかし、革命の目標に関しては、英仏には違いがあった。英のそれは、富裕な共和主義者や立憲君主派の政権獲得に留まったのに対し、仏のそれは、急進共和派の政権獲得にまで至り、社会主義的な憲法制定や封建地代の無償廃止にまで至った。故に、人民の同質性においては、英よりも仏は遥かに国民国家になった。その仏国民軍に大敗した普も、その軍事的対抗のために国民国家形成を目指した。しかし、それは上からの近代化、地主制を維持しながらの国民意識形成であった。そのため、ベルリン大学に見られるとおり、言語と教育による国民国家形成を目指した。

(299

(B)アメリカ独立革命に関し、ヨーロッパにおける諸変革との比較を念頭において、アメリカの場合の特色と思われる点を述べよ。

A

米の特色として一つ目に挙げることは旧来の封建勢力による反動が無い事である。欧州における諸変革の場合は、清教徒革命後、仏革命後の王政復古のように反動に至る事が多い。この違いは、北米には当初から王侯貴族が存在しなかった事が理由であろう。二つ目の特色として、アメリカ独立革命と対決した英本国が、そこまで封建的でない事である。確かに、ジョージ3世の集権化の試みや、北米代表不在の議会による北米に対する重課税と重商主義が展開されていたが、一方で議院内閣制が整備されていた。清教徒革命は王権神授説を打倒し、仏革命はアンシャンレジームを打倒した事と比較すると、やはり、当時の英本国は封建的な度合いは低い。(295

 

東大(世界史)

​1986年度

第1問

キリスト教文化圏としてのヨーロッパは、中世初期から現代にいたるまで、イスラム世界と境を接し、政治的にも文化的にも様々の影響をこうむってきた。

この観点から、19世紀の前半にいたる両者の交渉や勢力関係の歴史を、600字以内で記述せよ。

なお、解答文では、下記の語句を少なくとも1回は使用し、最初に用いたときに下線をほどこせ。

グラナダ   近代科学   オスマン帝国   1820年代   ハンガリー

ウマイア朝   レパントの海戦   東方問題   ビザンツ帝国   十字軍

主題

両者の交渉や勢力関係の歴史

副題

キリスト教文化圏としてのヨーロッパは、中世初期から現代にいたるまでイスラム世界と境を接し、

政治的にも文化的にも様々の影響をこうむってきた観点から

​A

ウマイア朝は東西に勢力を拡大した。エジプト・シリアを奪われ都を脅かされたビザンツ帝国は屯田兵制に基づくテマ制を導入した。偶像禁止令もこの時のイスラムの影響が大きい。西欧では、回教徒の進撃をトゥール=ポワティエ間で止めたものの欧州基督勢力は、地中海に板きれ一枚浮かべられなくなった。結果、西欧は自給自足経済に入り、封建制の形成に至った。トルコ系台頭によりビザンツは十字軍を要請し、その発動・失敗により、教皇権威は上昇・下降した。十字軍は文化的な接触も増やし、トレド等でアラビア語文献がラテン語に翻訳された。特にアリストテレス哲学の流入はスコラ哲学に刺激を与え、欧州近代科学登場の素地を作った。1492年に西欧基督教勢力がグラナダを落とし国土回復に成功するが、その過程で醸成された宗教的情熱は大航海時代へと繋がった。一方、東欧では1453年にトルコ系のオスマン帝国がビザンツを滅ぼし、モハーチの戦いでハンガリーを獲得し、第一次ウィーン包囲にまで至った。基督教側は一枚岩ではなく、仏国はオスマン帝国と同盟を結び、ハプスブルク包囲網を形成したが、ハプスブルクはレパントの海戦でオスマンの進撃を止めた。第二次ウィーン包囲ではオスマンは敗北し、ハンガリーを失い、19世紀に入るとオスマン帝国は弱体化し、1820年代のギリシア独立にみられる東方問題が展開され、英露の対立を軸とした欧州外交関係に大きな影響を与えた。

 

東大(世界史)

​1985年度

第1問

19世紀末から20世紀初頭にかけて、いくつかの戦争が起り、また、世界各地でさまざまな反帝国主義運動が展開された。下記の諸都市と関連することがらを思い浮かべながら、1894年から1910年にいたる時期の反帝国主義運動について、20行(600字)以内で述べよ。なお、下記の都市名を解答文の中で使用する必要はない。

東京   漢城(ソウル)   北京   マニラ   カルカッタ

テヘラン   イスタンブル   ハルトゥーム   ペテルブルク   ハバナ

主題:反帝国主義運動について 述べよ

時期:1894年から1910年

留意点:「いくつかの戦争が起こり」

A

最初に帝国主義の二面性を説明する。確かに、日清・日露戦争は最終的に韓国併合に至るので帝国主義的であった。しかし、一方でこれらの戦争に見られる立憲君主政の優位性、有色人種の白人に対する勝利は広く反帝国主義運動に光を与えた。例えば、国民会議カルカッタ大会やイラン立憲革命、サロニカ革命、中国同盟会の結成等がこれに当たる。また、日本・ロシアといった帝国主義国国家の内部においても、反帝国主義運動はあったと考えられよう。例えば、上述の中国同盟会結成に際しては、一部日本人の支援もあった。血の日曜日事件の発端は日露戦争中止を訴える平和請願デモだった。次に、反帝国主義運動の二面性を説明する。運動の一部には、結果的に、より深刻な植民地化に至ったものもあった。例えば、キューバ、フィリピンは米軍を使ってスペインからの独立を目指したが、結局は米国に支配され、かつ、その莫大な資本投下により、従属性はより増した。また、反帝国主義運動における連帯不一致もあった。以下、例を三つ。袁世凱は自身の力を保持するため義和団を見殺しにし、結果、北京議定書により中国の植民地化は一層進んだ。マフディの乱鎮圧に際しては、英軍だけでなく、アラービー=パシャの乱が鎮圧されて間もないエジプト軍も動員されていた。日本の朝鮮侵略に際しては、確かに抗日義兵闘争が展開されているが多数の対日協力者の存在もあった。(583

 

東大(世界史)

​1984年度

第1問

第一次世界大戦と第二次世界大戦とは、20世紀の戦争として、それまでの歴史に見られなかったような特徴を備えている。二つの戦争を比較し、これらに共通する新しい性格と結果とを600字以内に論ぜよ。なお、解答文では下記の語句を少なくとも一回は使用し、最初に用いたときには下線をほどこせ。

工業力   国民生活   アジア   残虐兵器   植民地   革命 

国際平和機構   飛行機   アメリカ   国家統制

 

A

2019.09.02  0:02
共通する新しい性格の一つ目に、世界大戦がある。欧州だけでなく、両大戦はアジアも舞台にした。一次では西アジア戦線、二次では中国戦線がある。共通する新しい性格の二つ目に総力戦がある。両大戦とも、前線の戦闘を継続すべく工業力が重要となり、それを伸張するため、国家統制国民生活は犠牲になった。その工業力は、飛行機や戦車の開発を進めた。共通する新しい性格の三つ目に、残虐兵器の開発・運用がある。一次大戦における毒ガスや、二次大戦における飛行機による都市空襲や原子爆弾の投下がそれに当たる。共通する結果の一つ目に、植民地・勢力範囲の再分割という結果がある。一次では委任統治、二次では信託統治という形などで戦勝国に分配された。共通する結果の二つ目に、大戦により国家が滅んでいる。一次大戦では、ドイツ革命・ロシア11月革命、オーストリアの共和政への移行、二次大戦では、GHQによる日本改造、米ソによる東西ドイツの成立がそれに当たる。共通する結果の三つ目に、両大戦後、集団安全保障を基礎とした国際平和機構が設立されている。これは両大戦の原因が、主権国家体制の限界にあったからである。共通する結果の四つ目に、アメリカの伸張がある。両大戦とも米本土は戦場にならず、両大戦直後、その工業力は圧倒的であった。
(539字)
 

 

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