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合格体験記

法政大学社会学部社会学科 陳俊成(ちんとしなる)

帰りの道中、私は軽い放心状態に陥りました。なるほど学校で習う世界史があれほど無味乾燥なのは、我々が世界史をただの過去に過ぎないと高を括っているせいでありまして、その点、弓削先生は文化、現代社会と経済の構造を巧みに関連付けることで、歴史がただの歴史ではなく、我々が生きる今と 深い繋がりがあるのだと解らせ、然れば聞く者は自ずと夢中になる。

☆高校名

関東国際高等高校



☆合格校

法政大学社会学部社会学科(センター試験利用)



☆不合格校

早稲田大学文学部(補欠→不合格)

早稲田大学文化構想学部

早稲田大学法学部

早稲田大学商学部



本体験記は他の卒塾生のものと趣を異にしており、その中身はいかに勉強し、成功できたかを語ると言うよりも、一人の堕落者が、ここでせめてもの救いを頂くまでの思い出と感想を簡略にして書き下ろしたもの、と言った方が適切だと思われます。他と同じ形式でないのは、ひとえに私の出来が悪く、これからの受験生に対して有用な経験を提供できないせいであり、申し訳無いと思うと同時に、せめては本記が皆様とゆげ塾の縁を結ぶ助けにな

るようとの思いを込めて書き上げました。ところで、私は塾の性格を重きに本記を書いたつもりでありますが、もし単純に授業の特徴や、受験生活の戦略を参考したい場合は、近年のもので 5 期の静君、天坊君と山岡さん、6 期足立君、7 期石神君と三木さんの体験記を特にお勧め致します。それにしましても、今まで私はこういう紹介文の類いを書き表したことがないので、順序の立て方、物事の書き方に妥当を欠くものがあるかも知れませんが、そういう点は 不馴れの為として、御諒恕をお願い申し上げます。さて、私が初めてゆげ塾を尋ね、先生にお会い出来たのは 2014 年の 6 月頃。初夏の足音が蝉噪と併せて来るのと同時に、私は高校の同窓で、ここの卒塾生でもある南雲君と共に塾の門を叩きました。直ぐに長い階段を上がり三階の教室に入ると、最奥に小太りの男性が生徒の歓語の中、ひとり静かに何かを準備されているのが見える。

南雲君に挨拶を促され近づいて行くと、見てくれ 40 代中盤、糸目で優しげな雰囲気を纏う先生のお顔がはっきりと判りました。後日先生はまだ 38 才と知ると、歳は見かけによらないと自分の眼に裏切られた気持ちでしたが、それよりも、先生の温和な感じに欺かれたのが先でありました。



一体それは受講後の感想でありますが 、彼は授業が始まると、その容姿と寸分似合わぬ甲高い声で講義を捲し立てて行くのです。早口ながら、中身の充実具合は南雲君の前評判以上で、また講義話が佳境に入ると、ついには小さく跳ねたり叫んだり、何かに憑かれたのかと思わせる具合なので、聞いているこちらも釘付けになってしまうのです。途中に休み等も挟まされましたが、気がつけば、一日の授業は既に終わっていたではありませんか。


帰りの道中、私は軽い放心状態に陥りました。なるほど学校で習う世界史があれほど無味乾燥なのは、我々が世界史をただの過去に過ぎないと高を括っているせいでありまして、その点、弓削先生は文化、現代社会と経済の構造を巧みに関連付けることで、歴史がただの歴史ではなく、我々が生きる今と 深い繋がりがあるのだと解らせ、然れば聞く者は自ずと夢中になる。また授業の合間には休みの他にもいくつか変わったプログラムが挟まれていて、例えば外歩き、暗記大縄跳び、早押しチーム戦。変わったと申しましても、全てが生徒に飽きさせないよう、かつ覚えさせるように工夫を重ねているのです。ゆげ塾は革新的で、無駄の無い授業を提供している。今考え直しても全くその通りでありまして、大学へ入って以来、またそれ以前の人生でも、私は先生のよりも面白く、かつ実のある授業を受けたことはありません。


そしてゆげ塾を語る上で、蒸し返さなければならないのが「工夫」という二文字であります。私は後々先生のもとで雑用として働かせて頂いたので、彼の人となりについては多少分か っているつもりですが、先生は一体工夫というものを重んじておりました。もちろん、昭和の貧しい生まれから裸一貫でのしあがって来た彼は「努力」「根性」も大好きなのですが、それよりも「工夫」や「効率」という言葉を、よくよく口にされていました。た

だ馬鹿正直に努力するよりも、それ以前に綿密な計画を建て、なるべくその努力が滞りなく実に結び付くのを好んだ。また仕事や勉強のみならず、塾の環境にもその心持ちがよく表れているのです。信じ難い話かも知れませんが、彼の塾運営での収入は時給に換算すると随分に少ないもので--少なくとも当時雑用として働いていた私の時給よりも低いのですが、決して生徒が少ない訳ではありません!夏の教室は生徒で溢れ返っていて、歩くのですら一 苦労。では何故にそこまでの薄給なのかと申しますと、ひとえに先生が塾の向上を目指し、行動に移しているより他はありません。頂いた授業料は、大半以上が塾の維持費と投資に注ぎ込まれ、気がつけば教室のテレビモニターがサイズの大きい物になっていたり、一階のガレージにパソコンが増設されていたりしました。先生の懐が寂しいのは全くそのせいでありまして、ある日、一日の仕事がひと段落つき、先生と私を含むスタッフ数名が一階でスーパーの半額お惣菜などをつついている時、先生がいきなりに


「いやー、いつかは皆でくら寿司食べに行けるよう偉くなりたいな!」


と仰った時は、いやいや、もし先生が「生徒が授業でもっと映像をはっきりと見えるように~」とぼやきながらテレビモニターを買い換えていなければ、また「生徒の勉強のサポートに使えるし、スタッフの仕事も効率あがるけん~」などと言いながら高価なパソコンを増設していなければ、くら寿司数人分を一回奢る事なぞ、何も偉くなるまで待つものではないじゃないか!と、心の中で笑ってしまった事を、私は今でも覚えております。しかし冷静になって考えてみれば、目先の贅沢よりも、授業の品質、塾の環境、仕事の効率を第一に置く先生は、変わり者だなと思うと同時に、やはりその姿に感服せざるを得ません。


そういう先生の苦心もあって、生徒の塾に対する満足度は高いものと私は見ます。その証拠に、生徒は足繁く塾に通う。それは塾に一期分のお金を事前に払っているのですから、当たり前でしょうと思われる ところでありますが、ゆげ塾の集金は授業前に、その都度の授業分を現金で受け取るのみとされています。そうする事によって、生徒は毎回大金を払っている事を忘れずに身が引き締まり、先生もお金を頂いている事を忘れず、常に緊張感を持ちながら授業が出来る。それで生徒がゆげ塾の授業に不満足を感じるならば、いつでもゆげ塾は切られるので、先生は否応に毎日全力で挑むとのこと。かくのごとく彼はお金を頂くという事に、教師という仕事に、生徒に真剣に向き合い、見つめ続けているのであります。

なおまた、彼は上述通りの態度を「プロテスタントの精神」と称し、通年に渡る授業の中でも度々口にされる。


それに影響されるせいか、それとも集まる生徒がおおよそ元から真面目なせいなのか、両方ともに原因はあると思いますが、塾全体の雰囲気は笑いが絶えない感じでありながら、常に進歩的で、カッチリしています。これについては、私のようなどうしようもない半端者ですら一応ながらも勉強に専心出来た事に鑑みれば、何も私の主観だけではないと思われます。

私のような半端者と申しましても、よく解らないとお思いなられるかも知れませんが、私は一体どうしようもない人間です。高校を卒業した後は、進学という事を視野に入れながらもまともに勉強せず、アルバイトとして働いたり、しかも働くことですら長続きせず勤務先を転々としていたのですから、根性も知性もない底辺と称されましても、何も文句は言えません。ゆげ塾に来たときは、既に所謂二浪で、世間から見れば後がない状況でした。


しかし最低限自分が納得いく大学に入学したのがまたその二年後の春なので、合格した時は三浪としてであります。そんな私ですから、塾では生徒としても、雑用係としてもやらかした事は片手、いや両手にも収まりません。にも関わらず先生は時に厳しく叱り、時には優しく褒め、経済面でも工面して頂き、実によくしてくれました。それらを一から十まで皆書き下ろしたいところでありますが、これ以上はあくまで私事であり、本文の趣旨から大きく逸れる上に冗長となってしまいますので、ここでは割愛させて頂きます。ただ一つだけ保証できるのは、先生は真面目に学を求める生徒を決してないがしろにしない、一人々々に教師としての愛情を持って接するお方であることです。ここまで、私は先生のあり方をいくつか挙げてはこれでもかと褒め尽くしたので、これは塾の者が盲信に囚われ、客観視できていないのではとの声も挙がりそうですが、私は別段先生を神格化している訳ではありません。あくまで仕事人としての、ありのままの弓削先生を讃えたに過ぎず、全体的に見れば、先生も一人の人間である以上、癖や欠点を持っているものであります。例えば、先生はほぼ年中無休の状態で毎日 18 時間仕事をするという、過剰なまでの努力家なので、自分に対して厳しいと同時に、他人の仕事を評価する時も稀に不条理と思える程厳しい事があります。それは信条由来の厳しさなので、ただ悪いという訳ではありませんが、さておき、たとえこれを除いたとしても、他に私が存じない先生の欠点も恐らくはございましょう。しかし結局私が一番に見えるのは、先生の常に成功を目指し、なりふり構わず進む所です。人生とは実に色んな在り方があって、また、どんな人生が良いと思うのは個人々々の事で、自力で生きて行け、他人様に迷惑をかけないならば十分、という考えも当たり前にあるでしょう。ですので、弓削先生のような仕事人生こそ最良などと、簡単に理解されない事を私は押し付けたりしません。ただ同時に、志望校に行きたいと言う思いがあるのであれば、その受験人生を有終に飾るために、まずは先生のなりふり構わない強さを身に付けるべきではないかと、私は思わずに居られないのであります。


ゆげ塾に居た二年間、特に二年目ですが、私は苦しみながらも幸せでした。 先生の背中を懸命な牛歩で追い付かんと躓いたり起きたりの繰り返しで、苦しみと言えばそれに過ぎないのですが、しかし私にとっては実に巨大な事でした。それでも一応に凌げたのは、ひとえに塾で仲良くしてくださった方々のお蔭でございます。恐らくどなたも自覚なされてないでしょうが、先生は勿論、同期、チューターや先輩の、大変前向きな姿や言葉に私は支えられて来ました。ここでは先ず、支えてくださった全ての方々に感謝を申し上げたいと思います。そして今でも時折に想い返す、授業前 20 分の教室を巡る楽しげな喧騒、早押しの優勝を争ったガレージの熱気、同期達と共に楽しく頂いた昼食、深夜先生の教戒を受けながら通り過ぎた塾近辺の細道、皆様と解散したいつもの池袋駅改札。到底枚 挙し切れませんが、全てが私の大切な想い出になりました。


最近、実に卒塾から半年後ですが、機会があってまたゆげ塾を訪れる事がありました。いつもの道のりで塾へ向かうと、第一志望に落ちた不甲斐なさがふつふつと湧いてきて、どうやって支えて下さった方々に顔向けしようと葛藤しましたが、意外な事にそれも長くは続きませんでした。想い出の細道を通り抜け、月に弱く照された塾を目の前にすると、この建物は確かに私の道標だったと解ったからです。確かに私は他の塾生より大分見劣りする所へ行くことになりましたし、その点を見ると、私はゆげ塾の精神を全う出来たとは言えません。ですがそれ


でも、これからもこの道標を時々思い出し、その指す方向に沿って歩き続けば、また朗かな新 天地に辿り着けると私は信じています。そしてそこに到達してやっと、私は堂々とした気持ちでゆげ塾を再訪できる気がするのです。その時の塾が今より素晴らしく、またその素晴らしさがより広く伝わり浸透している事を心に願いつつ、今回は勝手ながら、ひとまず本記を結ばせて頂きます。では、皆様の努力が実りのあるものでありますよう。

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